電子書籍『リブラ 可能性、脅威、信認』刊行に寄せて

著者が語る

国立情報学研究所准教授 岡田仁志

 8月上旬のとても暑かった頃に、キー・オピニオン・リーダーを務める日経COMEMOが「#リブラを私はこう評価」というテーマで意見を募集しているのが目に留まった。ふぅん面白そうなテーマだなぁと、その時は気にも留めなかった。だが、なんとなく調べているうちに興味が湧いてきた。

 リブラといえば、中世の貨幣単位だったなとか、通貨発行益を握ることを王様特権というけれども歴史家はどのように論じているのかなと、あまりリブラとは関係なさそうな論稿を読み始める。学部時代に親しんだ木村尚三郎氏の西洋史を読み返しながら、忘れないうちに読書メモを投稿する。

 たまたまドイツに渡る用事があり、本を携えて旅をする。夏のヨーロッパは日が長い。古城を巡りながら、当時の領主たちに想いをめぐらせる。城を所有することは、マーケットを開く権利と、貨幣を発行する権利が得られることを意味した。だが最近の城は、クラウドファンディングで補修費を集めるという。隔世の感が漂う。

 読書メモを3本ほど投稿した頃に、旧知の編集者から連絡が届いた。思い起こせば、この人から連絡を受け取るのは、日経文庫『電子マネーがわかる』を上梓して以来である。出版は2008年であったから、奇しくもビットコインが発明されたのと同じ頃であった。

 リブラについて語るのは金融の専門家のほうがふさわしいと躊躇したが、既存の概念を打破しようとするものをニュートラルな視線で描くのは、分野外でも構わないかもしれないと思うに至った。そこから執筆の日々が始まる。帰国してひと月あまり、時には飛騨に山籠りして書き物に専念する。季節が変わった頃に仕上がった。

 研究者は概して執筆に時間をかける。かくいう自分も、草稿を書き上げてから刊行までに半年ほどの猶予をもらって、専門家に査読を依頼するなどして内容を正すこともあった。それが今回は2週間足らずの校閲である。先ずは世に出すべきだと説得を受け、批判を受けて直せばよいと納得することにした。

 だから、これはソフトウェアの開発でいうプルリクエストのようなものだと割り切っている。仕様が公開されているフリーウェアを構築するエンジニアは、誰かが作ったモジュールを検証して修正提案を返すというフリー査読の文化を持ち合わせる。検証のリクエストのことを彼らはプルリクエストと呼ぶ。

 リブラという不可解な現象を説明しようとするこの本は、まさにプルリクエストの段階にある。民間企業が地域で流通するクーポンを発行した例はあったが、基軸通貨を発行するというのは聞いたことがない。国際社会の想定しなかった事例であるから、既存の概念に押し込めて説明することは諦めたほうがよい。

 かつて金融ビッグバンの時代を先導された故・蝋山昌一氏は、自著を学徒に贈るときに、次のような一言を添えたという。「常識にとらわれず。通念にこだわらず。己の信ずる道を歩まれんことを」それは、間接金融から直接金融への変革の時代を歩まれた、ご自身の人生を象徴するかのような言葉であった。

 デジタル通貨を発行する野心的な計画に対して、国際社会からの風当たりは強まっている。米国の行方を決めるキャピトルヒルでは、大勢のロビイストが暗躍する。リブラを主導するフェイスブックのマーク・ザッカーバーグCEOに対する10月23日の公聴会では、各州から選出された議員が合衆国市民を代表して同社の計画に異論を唱えた。

 5分という限られた質問時間に鋭い質問を投げかける議員もいれば、苦手なITの質問を早く終えたいと言わんばかりの議員も見受けられた。物理学者でもあるビル・フォスター議員の質問は技術の核心を言い当てており、キャピトルヒルには合衆国の叡智が凝縮されていることを思い知らせる迫力があった。

 アメリカ合衆国には自由の国としての歴史がある。独立戦争に勝利した旧植民地アメリカは、イングランド銀行の発行した紙幣を否定する。市中銀行が銀行券を発行することを認め、連邦政府が中央銀行を設置しなかったことは、合衆国の建国の精神を反映するかのようである。

 だが民間商業銀行による銀行券の発行は、やがて連邦準備制度理事会という制度にとって代わられる。建国以来のそれほど長くはない歴史の中で、無数のトライ・アンド・エラーを繰り返してきたのが合衆国であった。それはまた、合衆国にとって利益をもたらすものであれば、どのような変化も受け入れる包容力があることを示唆する。

 デジタル通貨の発行をめぐって、世界は大きく揺れている。リブラに対抗して中国人民銀行は「央行数字貨幣」の発行を計画している。米国が消極的な姿勢を示す一方で、中国政府はブロックチェーンの積極的な活用を宣言する。EU離脱を好機と捉える英国は、英連邦諸国の経済を結集してデジタル通貨の覇権を目論んでいる。

 激動の時代にあって、社会の変化を読み解くための羅針盤として、この本が少しでも役に立つことがあればと願っている。

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著者は、本書発刊後の事実について、noteの投稿で随時追っています。
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■岡田 仁志(おかだ・ひとし)
国立情報学研究所准教授
1965年大阪府生まれ。東京大学法学部第一類(私法コース)、第二類(公法コース)卒業。大阪大学大学院国際公共政策研究科博士前期課程修了。同研究科博士後期課程中退。博士(国際公共政策)。同研究科個人金融サービス寄附講座助手を経て、2000年から国立情報学研究所助教授。2007年より現職。総合研究大学院大学複合科学研究科情報学専攻准教授(併任)。専門は電子商取引や電子マネーなどのITサービスに対する消費者の受容行動と公共政策。
著書に、『電子マネーがわかる』(日経文庫)、『仮想通貨』(共著、東洋経済新報社)、『決定版ビットコイン&ブロックチェーン』(東洋経済新報社)などがある。

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